被爆で、一瞬にして廃墟となった地から立ち上がり、今の広島へつながる道筋で、財界グループ「二葉会」が果たした役割は大きい。
そのころの広島市役所は甚大な被害からの復旧、学校や住宅建設などに追われて財政が困窮。多くの人を受け入れる「公会堂」建設に割く予算の余裕などない。大きな会議や音楽会などは大阪から福岡へ飛び越え、広島を素通り。
「わしらでやろうやないか」
地元企業トップの発言をきっかけに、公会堂の建設資金に充てる寄付金集めが始まった。個々の企業の利害得失を離れ、広島を復興させようという、当時の経済人の気概が伝わってくる。広島の復興を目的に、1955年に二葉会が発足。特段の会則はない。対外へ名を伏し、寄付するだけ。この辺りは、3月20日に発刊された本「二葉会のあゆみ」(80ページ)に詳しい。著者の上原昭彦氏はローカル月刊誌、経済週刊誌の記者を通じて、50年近く広島の政治、経済、社会の動向をウォッチしながら蓄えてきた関連資料を元に、新たな取材を加えて上梓。巻頭に、設立時のメンバー(氏名50音順)と、その顔写真を載せる。
伊藤信之・広島電鉄社長、島田兵蔵・中国電力社長、白井市郎・中国醸造社長、田中好一・山陽木材防腐(現ザイエンス)社長、橋本龍一・廣島銀行(現広島銀行)頭取、林利平・広島瓦斯(現広島ガス)社長、藤田定市・藤田組(現フジタ)社長、松田恒次・東洋工業(現マツダ)社長、森本亨・広島相互銀行(現もみじ銀行)社長、山本實一・中国新聞社社長、67年に新規加入した村田可朗・中国電気工事(現中電工)社長の11人。(以降、敬称略)
さて、公会堂の件(要約)だが、52年10月に本放送を開始した中国放送初の正月番組「新春座談会−初夢を語る」で、田中好一は、
「広島には、人が集まろうと思っても適当な会場がない。私の年来の夢は、広島に立派な公会堂とホテルと物産陳列館をつくることだ」
浜井信三市長は、
「私も公会堂はぜひ建てたいと思って、これまで国の補助金を要求してきたが、どうしても認めてくれなかった。さればといって、市費で建てることは当分見込みがないし、諦めているところだ」
この放送を聞いていた松田恒次は田中に、
「(市が直ちに建設できないのなら)わしらでやろうやないか。なくなった親父(創業者の重次郎氏)も広島に何か残したいと言うとったんや」
公会堂をつくって市に寄付する。田中、松田の呼び掛けに応えたのが、当時の広島の有力企業10社、10人。5階建て7814平方メートル、1700人収容可能。ホテルを併設した公会堂は55年2月に総工費3億2245万円で完成した。その後、二葉会として結集する10社が、うち2億9000万円を寄付。
のちに浜井市長は著書で、
「戦後日本の経済状態から見て、地元財界にしても決して楽な捻出ではなかったはずである。それを、あえてこの挙に出た広島財界を、私は広島の誇りに思っている。この公会堂ができたために、市民の生活にどれほど潤いを与えたかと思うと、ただただ感謝に堪えない」
と記している。−次号へ。